感想を求めること  (夜想曲 〜愛情に満ちたあたたかい空気〜より)

関連してRe:「成仏できない」も読んでおくといいかも。むしろ必須か。
前の「SS作家と挿絵描き」とこれについては何か書きたいと思っていたものの、シャッフル、東鳩その他で先延ばしに。
さて、少々戯言タイムとしましょう。以下隔離、Web上には言葉では敵わない人達がたくさんいるので。



これはもうどうしようもないことなのだが、クリエイターは、本質的に感想が欲しいものなのだと、わたしは思う。

これに反論する人はいるだろうか? その人はすごく強いか嘘吐きだ。
絵・文章の創作を含めた「主張」は全て自分の世界、自己の拡大が目的であって、その成果が「他人に与える影響」。
自分というフィルタを掛けた情報を認めてもらうのは、相手の事情とか関係無しに本質的な喜びに繋がる。
その手段が絵であるか、文章であるか、研究論文であるか、恋愛であるか。その違い。
感想が要らない人ってのは、自分が確実に世界に影響を及ぼしている事を確信出来る人。
人間が信じられなくて行動に対するリアクションまで信じられないという線も浮かんだけど、
人間を信じられない人間は外へのアクションを起こさないと思って破棄した。


同時に、他人から与えられる影響も重要。自分が発信したものを違う方向から観察したり刺激する事によって
自分の世界に無かった・足りなかった何かを補充し、それによって自己を強化する。
強固になればなるほど自己の拡大は容易になり速度を増す。結局目標は「自分」という形の完成だ。
 (当然悪影響という言葉が示す通り、マイナス方向へ働く場合もある。只叩くだけ、曲げるだけではいけない)


ここまでは本能的な部分。結構どうでもいい。
天野さん言うところの「情熱」と「評価」ってのはもっと社会的・上位的な要素に思える。
原理は一緒だと思うんだけど、間に絵なり文章なりの手段がある以上「出来」が重要になってくる。
「努力」を認めてもらいたい自分と「作品」という形で見る受け手。
受け手の「ここがこう優れている」と自分の「ここをこう頑張った」が直結したときにこそ、至上の喜びが生まれる、と。
それを「気持ちが成仏する」と表現したのは非常に上手い。あの、褒められた時の、にやぁ、としてしまう感覚。
麻薬のように癖になるその楽しさが、多くの作品を生んだり人の世界を回したりするんだろう。
ここまで書けば、この間の企画を立てた気持ちも理解してもらえるだろうか。わざわざ面倒な条件を付けた事も。


まぁ、受け手としては褒めるにも作者の意図が分かった方が褒めやすい、ってものです。(露骨だと引いてしまいますが)
その辺の線引きの難しさは今のところ解決出来ない。努力を隠す美徳は人によって違いが大きい。
関係は薄い話だけど、「情熱」の方向性が揃いやすいジャンルであればあるほど評価は得られやすくなる。
ヲタ関連のものってビックリするほど「情熱」の方向性が揃っているものだから、評価は得られやすいんじゃないかと思います。
あとは媒体の分かりやすさが明暗を分ける。絵は最上級で分かりやすい媒体。文章はどうだろう?


認識のズレ。こいつはひっじょーに厄介で恥ずかしいものだ。
どんなに自信満々で書いたってそれが「僕ちゃんなりの努力」でしかない事を理解出来ず、報われなさを嘆く。
ここで重要になるのは、今までに触れてきた世界の広さ。自分がどの辺のレベルにいるのか理解出来ると少し前進。
それをふまえた上で努力して、評価に値する作品を作る。初めて円滑に主張、評価が行われる。
他人を浸食したければ、相手よりも濃い濃度でなければならない。
 (触れたものに反感を覚えて、ブッ壊す為に戦うなら別の努力が必要)


どうにも、気合いを入れて書くと論点がずれる上に当たり前の結論になりがち。
まぁ、当たり前の事実に到達出来るだけでもマシとしましょう。


関係ないが、前半は東鳩2の双子シナリオでイルファさんが言った「身体の外に心がある」をベースに書いた。
自分の内側、自己について考えれば考えるほど誰かとの「繋がり」を無視出来なくなる。
欲求も自分一人では生まれない。自己を支える心は他人との間に作られた「繋がり」から自然発生してくるもの。
この、人の心の仕組みについてロボットが語る、という展開が印象的だった。
 (構造上俺にはイルファさんは脇役にしか見えなかったけど。もっと早く出てくれば・・・)




・・・何で最後はぱんつの話になるのか・・・すべてはぱんつ教の陰謀か!? (妄言も大概にしろ