今日の前置き

実際クサイ

 

  • E-mote雑感 〜動く立ち絵演出について〜(机上の空想 -on the armchair-)とか。立ち絵の動きで奥行きを表現してしまうことによって浮き彫りになってしまうチープさ、みたいなのは『マブラヴ』あたりで意識したような気がする。イモートじゃないエモートについては元記事と同じく、予想される労力に対して恩恵が小さいかなーという感想なんですけども……『ウィッチズガーデン』が最終的に何を達成し何者になるか、ってのは終わってみなけりゃわかんねーすわ。(投げやり) 動く!カワイイ!ってそんなお気楽な展開になるんだったら萌えの世から静止画と文章は消え去ってるんじゃないかな。(さらに遠投) 技術が孤立してるうちは単なる技術でしかなくて、目的と一つにならないと意味を持たないわけで……元記事中に出てくる「友人」の視点に近いところですかね。
  • ADV立ち絵表現って、絵と文章それぞれに対する想像力二つを合わせて使う(それだけのエネルギを観客に要求する/個々人の嗜好やシーンの状況によって注意力を天秤をフレキシブルに傾かせる/ある意味では「一つの要素に集中させない」ことによって様々なことを誤魔化せる)わけですけども……最初から絵が支配的になってる場合の(プレイヤー側の)受け取り方/組み立て方ってかなり違うものになるんじゃないかな。受け手の経験ライブラリ次第ですけど、比較対象がイヤーな感じに手強い相手になるんじゃないでしょうか。(それによってさらに効果と労力の比が悪化していくかもしれないし) 自分は文章を読みがちではあるし何事も文字で考えたい人でもあるので、「動」の表現は文章に任せてもいいんじゃないかなと思っていますが。(文章を「動」に偏らせる、みたいな意識ってのもエロゲシナリオ屋の人の中にはあったりもするんでしょうか)(分かんないですね)(アッハイ)
  • それぞれの要素作業者で示し合わせてやるっつーか、相互に干渉し合う形での製作は体力を要するでしょうねぇ。(細かい指示や差し戻しが連続するわけだし) 企画もディレクションも相当に筋道が立ってないと。(このへんはエロゲ界隈じゃループ議題の一つですが……) 元記事では立ち絵芸というフィールドで比較されてるminoriなんかはそっちの方向性で、アレはむしろパッケージングとかブランディングって話になるはずなんすよね。ういんどみるがそれを意識してるか?という点については全然そうは感じないんで比較にしにくいような。(ういんどみるは長くやってるわりにそのへん特に希薄なブランドでソコが気軽で良かったりもするし、明確な筋道を与えることで受け手を絞ったり試したりしすぎてるってとこもあるし、優劣ではなく思想のお話なんですけれども)
  • あんま関係ないけど、ビジュアル的に諸々を表現したいってなったらエロゲのクッソ長いプレイ時間ってのは是正(?)されていくのかな。(ビジュアルは尺を担保しないし、イマドキのシナリオ長のままビジュアル要素だけ増やすにはリソース不足だし、定価を五万円にするわけにもいかんだろうし) それこそminoriの作品でしょうか。(近年の作品は総じて平均より短め) 密度で勝負!って方向に動いたら現代社会のエンタメとしては質が高くなった(価値に対して拘束が少なくなった)ってことになるんでしょうが、作品の優劣は今より強烈に分かれそうだ。そうなったとき何が起こるか?とか。
  • ともかくなんつーか、労力かけて動かす方向へ行くのはいまんとこ死にに行くような感じになっちゃいますし、その壁を気合で越えたり構造を変化させて対応した何かは、俺の好きなものではなくなってそうだなぁ。あのように動かすことについて手間がかからないような技術が安価で提供されるようになって、それを使うことだけでは意味を持たなくなったくらいの頃には、もっと興味を惹くような深淵がぽこぽこ発生してるかもしれませんけども。
  • でもこういうことって、ビジュアルノベルに音声が殴り込んだ時点で既にいろいろ議論されてるんじゃないかなぁ。そこで「芝居」化しなかったのは何故か、ということを考えたりもします。